つらつらブログ

新卒4年目.エンジニアとしての生活が始まる。読書録備忘録など.思ったこと感じたことを記録しています.

CDを久しぶりに聞いてみた――視聴体験と儀式性音楽のインスタント化

晴れた土曜日、作業しながら音楽が聞きたくなった。

PC上で作業しているから、そのままブラウザからYouTubeを開いて作業用BGMを探したり、またiPhoneに手を伸ばして課金しているSpotifyを開くのがいつもの流れだ。

だけれども、今日はふとCDを聞きたくなった。

Spotifyを契約してから、音楽を聞く手段は、外出先はもちろんのこと家にいてももっぱらiPhoneだ。
なので、CDをラジカセにいれて音楽を聞く、という視聴体験はいつぶりだろう?
すくなくとも、昨年11月引っ越してからは聞いていないので、半年ぶりぐらいかもしれない。

ベッド下のケースからCDを取り出す。
縦に入れているので、そのままだとどのCDかわからない。 CDの上をなぞるように手をかけて、ケースを斜めにしてジャケットを確認する。

そうして一通り見た上で、手にとったのは宇多田ヒカルの『Fantôme』だった。

通常のアルバムより少し肉厚なケースから、CDを取り出す。
コンポにCDを挿入する。

そうしてスピーカーから流れる音楽を聞いたとき、普段iPhoneで聞く音楽とは違うように聞こえた。

なんというか、メロディ・歌詞が、自分のなかに染み入ってくる。
普段も音楽は聞いているのに、この違いはなんだろうと疑問に感じた。

そこで考えたのは、実際に音楽を耳にするまでの「行動」が関係しているのでは?ということだ。

iPhoneで音楽を聞くまでの動作は、他のアプリの操作と変わらない。
Spotifyを起動して、検索や履歴から聴きたい曲を選び、タップすれば再生される。

一方で、CDの場合、聴きたいアルバムを選び、ケースからCDを取り出し、コンポに挿入し、再生ボタンを押す。

この一連の動作は、CD固有のものだとおもう。(DVDとかあるけれども)

この音楽を耳にするまでの動作が、日常生活のなかでCD固有の動作であるために、自分の体が 視聴モード に入り、 より音楽が聞けた のではないか。

もしかすると、聞いたアーティストが「宇多田ヒカル」だったから、かもしれない。
また、自分の人生の視聴体験が、CDを中心に形成されてきたから、かもしれない。

だけれども、久々にCDで聞いてみて、音楽を聞くことひとつをとっても、儀式性を伴うものだと感じてしまった。

今の時代は、iPhoneAndroidで音楽を聞く場面が増加している。
また、CDから取り込む過程もなくなり、SpotifyApple Musicでサブスプリクション契約をすれば、その瞬間に聴き放題だ。
たしかに聞く側にとっては音楽を手軽に聞けるようになった。 また届ける側にとっても、インディーズアーティストの売上増加にも貢献しているらしい。

こうして音楽の民主化が進行する一方で、音楽の視聴体験自体が「軽くなる」すなわち「インスタント化」しているのかもしれない。

音楽に限らず、サブスプリクションモデルとなれば、一定金額を支払えば、使い放題となる。 絶対的に便利だけれども、一方でそこで提供されるモノひとつひとつへの、思いやりというか集中は、軽くなってしまうのかもしれない。