對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々』
ネタバレがありますので、注意お願いします。
ヒトラーに抵抗した人々
感想
ナチスのユダヤ人や捕虜に対する仕打ちに読んでいて苦しくなった。
だが、それと同時に、こうした状況にも関わらず反ナチス・ヒトラーへの抵抗を志した人々への気概に感嘆した。
すんなりと抵抗が進んだわけではなく、当時に総統に反逆することがドイツの愛国心に歯向かうことになるのではないか、といった逡巡も見られている。 そうした迷いがありつつも、最終的には当時の第三帝国ではない、理想のドイルを守るために抵抗へと舵を切る。 拷問を受けても同朋を裏切らず仲間家族のことを口外しない精神力、裁判においていくら罵倒されても決してひるまず逆にナチスへの批判・自分たちのありうるべき道を指し示す気概。 こうした気概と勇気を備えた行動はいくら称賛しても足りない。
そして、驚くべきは現政権に抵抗するだけでなく、敗戦を見越して、戦後ドイツの政治・教育体制のブループリントを描いていたことだ。
最悪の状況であっても、現実に絶望するのでなく、未来を見据えて理想とする将来像を描く
またこうした称賛されるべき運動も、戦後ドイツではすぐに社会的に公開されたわけではなかった。当時の占領国の方針として戦時中のナチスドイツを徹底的に否定するために、肯定されるべき運動を戦時体制の中に見出してはならなかった。そのために、抵抗運動の存在も非公開となり黙殺されたのである。
自分の現在の生活を見ると、より理想的な行動を描けているだろうか。 戦時中の限界状態では決してないが、国や社会の理想像について語らえているだろうか。
ヒトラーに抵抗した人々の活動を知るだけでなく、その背景にある精神・気概を受け継いでいくことが、過去将来の人類に対する責務なのかもしれない。
取り掛かりのハードルを下げる方法――自分が取り組みたい2つ
自分は内向的な性格であるために、新しいことに手をつけるのが遅い。 やろうかやらまいか考えて、結局やってみたところ、案外簡単であったり、また思っていたほど時間がとられていなかったりする。
なので、取り掛かりを早くするための自分なりのアイディアについて考えてみた。
2つの方法
とりかかりを早くするアイディアは以下の2つである。 - プロセスの細分化 - 最初の時間の計測
それぞれについて説明する
プロセスの細分化
自分が考えたとりかかりを妨げるものとしては、「一歩目を大きくしすぎること」がある。 逆に言うなら、自分がやろうと思っても手がつけられないのは、プロセスを大きく見積もり過ぎている可能性がある。
例えば、ランニングをしようと考えても、家でゴロゴロしてベッドから抜け出せない。こうした場合には、ランニングの開始状態としてウェアに身を包みストレッチをする場面を想像しているかもしれない。 それだとランニングの開始状態として、現在から遠すぎるし、大きすぎる。 それよりは、より小さい手前の段階を最初に想像する。 例えば、「ベッドから抜け出す」。 ただ、これだとランニング以外の行動も可能になってしまう(例えばテレビをつける、ジュースを飲む、など) なので、この場合だと、「ウェアをだす」ぐらいが最初のプロセスとしてちょうどよいと思う。 なぜなら、「手がつけやすく」かつ「ランニングに紐づく」行為であるからだ。 あとは自然とランニングに向かうと思う。(ウェアを着た状態でテレビが見たく本を読みたくなれば、その日はランニングはやめておいてよいだろう)
このようにとりかかるハードルを下げるためには、 「手がつけやすく」かつ「その活動に紐づく行為」 を意識するとよいと思う。
最初の時間の計測
さきほどは、最初のとりかかりを簡単にする方法を述べた。 ただ、とりかかりのハードルを上げるのは、第一歩目だけでない。
たとえば、「ゴールまでこれだけのプロセスがあるじゃん。無理だわ」と全体の工数予想が、とりかかりをだまたげることもある。
たしかにゴールまでの道のりが果てしないと、人はやる気をそがれてしまう。 具体的な道のりが不透明だからである。
ただ、ここで確認したいのは、その工数予想は正しいか? ということだ。 先に結論を言うと、取り組んだことのある事柄に対しては正しく予想できると思う。だが一方で、とりくんだことのない新しいこと(今回取り上げている取り掛かりにハードルの高いこと)の工数を予想することは難しい。 だから、全体の工数も予想できず、結果的にとりかかりを遅らす原因にもなる。
工数予想に対して取り上げたい方法は、時間を計測する である。 単純に、ゴールまでの段階を細分化して最初にかかった時間を計測すると、ゴールまでの見通しが立つ。そうすると、自然ととりくめる、という解決策である。
例えば、500ページほどの厚い本があったとする。これは読み終わるまでの時間を考えると、今は無理だと判断し、結局読まずじまいになる。 だが、とりあえず最初の10pを読んで見る。そのときに大事なのが漫然と読むのではなく、時間を測って読むことだ。
例えば最初の10pが15分で読めたとする。すると、読了までにかかる時間は、15分 * (500p / 10p) = 750分 すなわち、12時間30分で全体を読み終わると予想できる。 仮に通勤時間が片道30分とすると、1時間/日の読書時間が割り当てられるから、2週間と3日で読み終わる公算となる。
このように具体的に数値ででてくると、より実態に即した工数予想が可能となり、ゴールまでのプロセスも描きやすくなる。
最初は時間計測は面倒と思うかも知れないが、習慣づけしてしまえば問題ないと感じる。また、昔から便利なツールも出ている。下のtogglはブラウザ版とアプリ版(iPhone、Android)ある。
今回は自分が課題と感じる一歩目のハードルを下げる方法を書き出してみた。 まだ十分に実践できたわけではないので、途中経過や成果は追って記事にしたい。
もし記事内容に関して他のアイディアや助言等ありましたら、コメントよろしくお願いします。
環境への適応と批判精神の喪失――会社への慣れ
(最初に断っておくと、今回の記事は自分のもやもやした感情を吐き出し、偏屈した感情の渦巻いた記事になっている。)
言いたいことは自分の決意表明である。 環境への慣れに警戒心を持つこと、すなわち自分の属する社会に対して距離感をもつ批判的視点を見失わないようにすることだ。
新人が環境に適応すること
入社して半年が経過した。 半年が経過すると、新人でも社内で顔見知りが増え、また1日の流れなど、慣れが出てくると思う。
会社とはいわば1つの社会である。社会とは個々人の総体以上のものであり、それぞれの社会特有の文化を兼ね備えている。 そうした文化の1つに「言葉遣い」がある。例えば、「〇〇用語」(※〇〇:会社名)と呼ばれるようにその会社に所属するメンバーが多用する言葉である。
こうした用語を使うことによって、社内でのコミュニケーションは円滑になる。またその言葉を理解できるものとして、同朋意識の醸成にも一役買っていると思う。(自他を区別する基準として言語を持ち出すのは「バーバリアン」という言葉にもある通り、言語を取得して以後の人間の特質であろう)
そうした社内用語の取得は、入社間もないメンバーに連帯意識を醸成する。これらの用語を時宜を得て使えたさいには、自分がこの会社に属しているという安心感も覚えるだろう。
ただ、こうした言葉を用いる際に注意しておかなければならないのは、あくまでその社内という1つの「コミュニティ」に閉じた言葉であることだ。 1つのコミュニティでコミュニケーションを円滑にする用語は、それ以外のコミュニティにおいては理解を妨げる言葉だ。 例えば、社外の勉強会に参加し、社内と同じ調子で社内用語を用いても他者の理解には役立たない。 万が一したり顔で社内用語を使用すれば、顰蹙も買うだろう(言い過ぎか笑)
このように社内用語は、その会社の一員としての同朋意識の確認と、円滑なコミュニケーションの情勢に役立つ。 一方でその使用場面が社外に移ると、コミュニケーションを阻害する可能性もある。
以上のように、社内用語は外部との関係性においてその影響が考えられる。 だが、一方で日常的にそれを使用することが、外部だけでなく、内部すなわち自分自信にも返ってくると感じた。
自分の抱いた危機感――社内用語の使用がもたらす無思考
社内用語を用いれば、コミュニケーションが円滑になる。また同朋意識も醸成される。
こうした自分を基準にした外部への影響の側面と、一方で内部すなわち自分自身への影響もある。
便利だからといってその社内用語ばかりもちいること、また社内用語に溢れたコミュニケーションに浸ることは、逆説的に対話力を低下させる。
例えば、そうした用語に慣れてくると、特定の場面において半ば脊髄反射的に社内用語を使うようになる。 また、同じ社内のメンバーであれば社内用語によって、意思疎通も図りやすい。
だが、こうした用語をもちいるときには、自分の思考は働いているだろうか。 その言葉がもつ意味を吟味して使用しているだろうか。 使うに適当な場面か勘案しているだろうか。
これが社外であれば、多くの人が上記の観点に留意して言葉を使用している。 だが、ことに社内となると、そうした思考は巡らなくなる。ひとえに必要ないからだ。
だが、自分の言葉遣いや、それらが用いられる場面に意識が向かなくなると、人は自分の思考に対して批判的でいられなくなる。 また、自分だけでなく、他社に対しても想像力がなくなる(社内話法に慣れてしまうことで、そうした他社の存在を前提としたコミュニケーションが減ってしまう)
上記の危機意識は、入社半年を経て、自分や同期の振る舞いを見る中で感じるようになった。
自分の日常を剥がすこと
社内用語の使用と批判精神の欠如を剥がすためには、まず重要なのは、社内用語はそのコミュニティでしか通じず自分もその状況に乗っているだけだという事実に自覚的になることだと思う。
その自覚的になるためには、自分の日常を剥がすことが必要と思う。 「剥がす」とは、自分に付着してしまう特定のコミュニティ感覚を取り除いていくことだ。
そのために必要になることは、外部との接触を持つことである。 それは年代や所属の違う人々、いつも触れることの少ない本・雑誌・ウェブメディアなど、手段はいくらでも思いつく。
日常的に、こうした非日常との対話の機会を持つことは、自分の対話力は批判精神を涵養するに必要だ。
ただ、結局時間は有限であり、どの程度まで自分の感覚を剥がすのかは程度問題である。また、その感覚を剥がしすぎて所属時間の多いコミュニティとのコミュニケーションに齟齬が生じれば元も子もないかも知れない(人によってはそうだと思う。ただ、個人的には社内用語に自覚的であれば、たとえ外部との接触機会が増えたとしても使用には問題ないと思う)
書いていたら予想以上に長くなってしまった… このあたりもっとわかりやすくかつ端的に書けるようになりたい。
今後考えたいこと――どの程度の資料化が適切なのか
資料作成も手段―-最終目的を見失わないこと
久々のブログ更新 最後の記事投稿したのは1年以上まえだった。 そして意外だったのは、案外ページにアクセスがあったこと!!ずっとゼロだろうと見越して今回確認してみたら案外閲覧されており、ちょっとうれしくなった。
前回のブログ執筆までは学生だったのだけれど(記事に 就活 の話題があったとおり)、半年前に今の会社に入社して働いている。 そして日々生活するなかで、学んだこと感じたことを整理したいなと思い、そのアウトプットの手段として今回ブログを久方ぶりに開いてい見た。 今の会社に至る経緯等はおいおい時間があるときにでもまとめたいと思う。
さて今回の記事であるが、テーマだけ先に述べてしまうと、業務中の資料化はどのぐらいの按配で行うのがよいのか考えたいということである。
まず資料化の個人的背景について言うと、資料化は促進したほうがよいと思っている(これは言わずもがなと思うが) ただし、資料化もあくまで手段である。その目的から照らしたときに、手段である資料作成に時間が割かれ、最終目的が達成できないもしくは質が下がるのは本末転倒である。
資料化の効果としては以下が個人的に考えられる
- 時間的・空間的影響範囲の拡大
- 自分の思考の整理
空間的・時間的影響範囲の拡大
これは業務中に資料化が求められる第一点であろう。 まず空間に関して述べる。 たとえば、口頭伝承や対面のやりとりであれば、その影響範囲には限界がある。 一方で資料化し昨今の便利なツールを利用すれば、多くの関係者に自分の考えや情報を伝えることができる。 また自分のアイディアに対してもより多くの人からレビューがもらえるようになり、結果的にアウトプットの質も上がる。
次に時間について述べる。 よく聞く場面であるが、引き継ぎのさいに前の担当者が資料を残していないと、そこのキに対してャッチアップに時間がかかる 他方、資料が残してあるとそこの引き継ぎもスムーズにいく。
資料作成の難点――作成時間
上に述べた以外にも資料作成のメリットは多くある。だが、資料作成の難点は、 作成に時間がかかることだ しかも資料作成はあくまで手段であるので、そこの手段のみ追い求めて、最終目的を見失うようでは、そもそもの資料作成の意味もなくなる。
資料作成の基準はなにか
このように資料作成においても、費用対効果を検証して、そこにどのリソースを注ぐかは判断する必要がある
たとえば下記の記事は、資料化をテーマとしたものではないだが、社員の負担を軽減し自走できる組織として売上も拡大している企業の例である。
このなかで、社員全員が顔を合わせるのは月に1回程度、それはカレンダー等を確認すればわかるから また、無駄な資料(クライアントへの報告書等)は作成しない、とある。 mirai.doda.jp
前者の直接面会せずとも、業務進捗が把握出来る点では、おそらく資料等で言語化されているからだと思う。 一方で、後者の効率化の観点では、無駄な資料作成をなくしている。
このあたりには、資料作成の見極めがあると思う。なのでこの基準を今後の業務やインプットを通して探っていきたい。 また何かしら学びがあれば、記事にもアウトプットしたい。
また上記に関して意見があれば、未熟者にコメントおねがいします!!
社会学×TeX×Mac
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社会学×TeX×Mac
些細なことだけど備忘録として記事に.論文の参考文献表記は各学会毎などスタイルがある.
その一つとして日本社会学会の『社会学評論』スタイルがある.リンク先のサイトのとおり,基本的な報文・欧文毎の違いから,参照する媒体毎の違いまで抜かりなく表記の仕方が解説されている.社会学系の研究者だけでなく,文系の学部生卒論でも参照されることも多いと思う.
Macで,LaTeXで社会学評論スタイルを用いようと思ったが些細なことで時間を消費してしまった.その備忘録として今回の記事を書こうと思った(私と同様な初心者の方に参考なれば幸いです.)
先に結論を言うと,
BibTeX社会学評論スタイル
BibTeXの『社会学評論』スタイルの文献表記について自動生成するスタイルファイルを,立命館大学の樋口さんがweb上で公開している.(圧倒的感謝)
ただそのファイルはウィンドウズ環境で作成されたためか,文字コードがShift-JIS形式となってる.
ただMac(ひいては,文字コード周り)はUTF-8がメインである.なのでこの樋口さんのスタイルをMac環境で使用するさいには,文字コード変換が必要なのだ.
僕はこれを導入するにあたり,zip.ファイルをダウンロードし,なかのファイル(styなど)をTeXShopで開いたとき,文字化けしたので,文字コード変換が必要なのはすぐ気づいた,が
その後よせばいいのに,中のテキストをコピーし,それをShift-JISからUTF-8へ変換し,またオリジナルファイルに貼り付ける,という作業をしてしまった.
その後文献リストを表示させようとLaTeXのテストファイルを実行しても悉く失敗.しばらく悩んだ後に,「ファイルの中をいじったからでないか」と思いたち,ファイルを指定して文字コード変換できるnkfコマンドの存在を思いだし.社会学評論スタイルファイルを再ダウンロードし,nkfを実行しUTF-8へ変換したところ無事にできました.ここまで半日かかった笑
ちなみに社会学評論スタイル,そもそものLaTeXについてはこちらのService Unavailableを.nkfについてはこちらのサイトmacでファイルの文字コードを変換する『nkfコマンド』の使い方とオプション一覧を参考にさせていただきました.
『「就活」の社会史: 大学は出たけれど... 』難波功士
難波功士『「就活」の社会史: 大学は出たけれど』
「就活生に読んでほしい」
この一言につきます。
とくに学生で就職活動を控え、先輩から苦労話を聞き、周りの意識高めの学生を見にし、得も言われぬ不安に襲われている学生に読んでほしいです。
あなたのその宙ぶらりんな状態を、地に足の着いた状態に戻してくれる、そんな本です。
以下、その理由を説明するために各トピックについて私なりの説明をしていきたいと思います。
- 就活での言説と情報環境
- 就活における情報の信頼性
- 「確からしさ」と「メディア」
- 『就活の社会史』
1.就活での言説と情報環境
まず就活における「言説」です。「言説」とかカッコつけた言い方してますが、いうなら就活でみんなが色々話して噂とか、一般常識みたいになっていることぐらいに考えてください(例えば、内定辞退するとコーヒーかけられるとか...)
それで、その「言説」を形づくっているのが、「情報環境」です。今、あなたがある就活の噂を耳にしているとして、その情報はどこから得ましたか?例えば、テレビ、雑誌、ネット、友人、説明会であった学生...など。それら、様々な「メディア」によって、普段の「情報環境」が形成されています。
2. 就活における情報の信頼性
それら「情報環境」によって「言説」が作られているという話をしましたが、その「情報環境」は時代によって変化したわけです。雑誌、テレビ、そしてネット。とくにネット時代に入り、情報はいくらでも出てくるので、「言説」も有象無象な様相を呈しています。で、その状況なので、受信する情報を、全て受け取っていると処理しきれなくなり、自分が情報に振り回されてしまいます。
そのときに一つの判断基準としてみてほしいのが、その情報の「確からしさ」です。
例えば、説明会であった学生から聞いた噂、就活掲示板で耳にした選考情報、それってどの程度信頼できますか? そのよくわからない情報に振り回されて、貴重な時間と知力を消耗していませんか?
そのムダを軽減し、自分の時間と体力を必要なものに振り分けられるように、情報をズバズバ取捨選択してほしいのです。そのときに「確からしさ」に注目して、信頼できる情報かどうか判断してください。
3.「確からしさ」と「メディア」
「確からしさ」はわかった。で、その「確からしさ」はどう判断すんの?という話になるわけですが、そのときの判断基準の一つとして、ここでは「メディア」を挙げたいです。人、本、テレビ、ネット...全部メディアです。
そこで今回提唱したいのは「本」です。なぜ「本」かというと
- 体系性
本というメディアの特性として、書き手が何らかの「主張」があり、それに向かって「論理的」に話が進んでいくわけです。(本によって「論理的」の度合いにも差があります。またその分、「読む」のも時間はかかります)で、これがなぜ良いかというと、論理を追うことで、読む自分の頭にも情報が体系的に整理されるからです。この点は、ネットの情報との大きな違いです。もちろんネットにも体系的な記事というのはありますが、多くはツギハギで取って付けたような記事が多いです。その場ではわかっても、アタマには残りにくいです。なぜなら体系的に整理されないから。
- 信頼性
次に「信頼性」ですが、「本」は、多くの場合引用が示されています。すなわち、筆者の空想ではなく、あるソース・情報源にもとづいて確かな議論を展開しているわけです。それは索引という形で巻末に端的に示されます。この点で、本は信頼性を担保しています。もちろん、引用というものは情報と不離不足の関係です。すなわち、いかなる媒体においても出典先というのは明示されなくてはなりません。ですが、特にネットを見ると、(少し前のオウンドメディア問題に端的なように)出典明記の精神が希薄です。
この2点が、私の考える「本」というメディアの利点です。(もちろん、全ての本がこられの基準を十分に満たすわけではないですし、他のメディアの情報でもこれらを満たすものは存在します。ただ私の考えとして、「本」は他のメディアよりも秀でている、という話です)
4.『就活の社会史』
つらつら書いてきまして本題ですが、ここで『就活の社会史』の登場です。
なぜ私がこの本を、就活生に推薦するかというと、
現在の「ウェブによって促進された就活周りの有象無象な情報」に対して
「本」というメディアによって「確かな情報」
を提供してくれるからです。
本の内容をかんたん説明すると、
「明治時代から現代までの主に新卒学生の就職活動状況と、その時代ごとに情報源として利用されてきたメディア、を説明し、就職活動の歴史的な変遷を描く」
というものです。
著者の専門分野とも関連して、本書は就活の社会史を描くにあたって、主に同時代のメディア、雑誌や映画を参照しています。それがなぜよいかと言うと、「過去の事実」だからです。例えば、「今の最新の就活はこれ!」のような半分妄想混じりの空想的就活論とは全く違います(もちろん、対象が就活の未来か過去と違っているので、同じ水準で比較はできませんが、妥当な議論を展開することはいずれにも必要条件でしょう)
そういった情報源を挙げていることと、体系性の最低の担保によって、「納得度」がもたらされます。(もちろん読む以上、批判的思考は必須ですが、今回はその議論は割愛します)
で、それが現代に生きる就活生にとって何がよいかと言うと、「安心」するからです。すなわち、
「過去の就活生も一緒じゃん。今に始まったことじゃないんだ!私だけじゃないんだ!!」
と、歴史の流れに自分を位置づけることで、謎の安心感が得られます。
というか、今の就活を相対的に眺められるので、冷静に判断する思考のベースができます。
そんなこんなで、情報疲れという現代病に苛まれる就活生・学生のみなさん、一度ウェブとかいう情報ギラギラメディアから離れて、「本」と一対一で向き合い、ほとぼりを冷ましてみてはいかがでしょうか?(この記事がそのウェブ上に存在するという矛盾)
ではでは。
『情報様式論』ーーマーク・ポスター
人文社会学系の、ネット・IT関連の著作では度々言及されていた。
学部時代から、タイトルだけ知っているが内容は知らない状態であった。今回、意を決して読んでみた。
ー概要ー
マルクスの「生産様式」を援用し、「情報様式」という概念を打ち立てる。そして、マルクス・ウェーバー、ボードリヤール、フーコー、デリダ、リオタールなど、各論者の打ち立てた理論を批判するとともに、「情報様式」を持ち出すことで、現代的に読み解いていく。
ー感想ー
オリジナルは1990年であるので、現代から見れば時代遅れの内容もある。ただ、そうでありつつも現在においても面白く読める。時代的な制約を踏まえると、当時としては果敢な取り組みであったと思う。
個人的には、ボードリヤールのテレビCM、フーコーの権力の章が楽しく読めた。
ただ、論者を批判するときに「不思議なことに、〜〜は、情報については言及していない」といった批判形式を多様するが、作法として妥当なのか疑問であった。
(たとえば、「ウェーバーは官僚制と科学を截然と弁別していたが、科学と官僚制の共通点にはなぜか言及していない」、のような)
たしかに20世紀末の現代から読み解けば、不足点も指摘できるが、それは19世紀の時代背景において想定することがそもそも難しい
(社会学的な文脈でウェーバーを理解するなら、当時の社会において「官僚制と科学」が現代ほど近接していたとは思えない。なぜなら「国家」と「科学」が接近するには世界大戦を待たねばならないから。また「情報」という概念も、当時の社会において人口に膾炙していないであろう。すなわちポスターが指摘する不足点は、当時の社会学が対象とした「社会」においては、まだ現れていなかった、たとえ現れていても現代と比べれば微々たる存在でしかなかった、といえるのではなかろうか)
そのため、マルクス・ウェーバーを批判するにしても、時代背景として言及の難しい対象の有無をもって批判するのは、批判として紳士的でない、と思う。
しかし、これは表現の仕方の問題であって、「『情報様式』を用いて、先人の分析枠組みをアップデートする」、と言えば聞こえは良いのだと思う。
(ただこの表現だと、「批判」ができない)
いずれにしても、野心的な、今読んでも面白い著作でした。
自分はポスト構造主義は勉強不足なので、その知識をつけたのちに読めばよりいっそう面白いのだと思う。
訳者あとがきを読むと、先に要旨がつかめるので読みやすいと思われ
- 作者: マークポスター,Mark Poster,室井尚,吉岡洋
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/10/16
- メディア: 文庫
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